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子どもからリュックを受け取ると

子どもがいれば

どこか学校でそういう事故がないかと新聞はひそかに待っている。学校はいけにえにされてはたまらないから、危なそうなことは片端からやめてしまう。鍛えていないから、ちょっとしたことで、すぐ怪我をする。偏重だからこんなことになるといって書き立てる。すると待ってましたとばかり、学校教育が知育学校はニュース恐怖症になって、だんだん萎縮してきた。何ごともことなかれ主義になる。

幼児の何かに役立つと考えてのことでしょう
幼児の何かに役立つと考えてのことでしょう
義務しつけは六年
義務しつけは六年


子どもたちにはなじめません

育児が花盛りですが大過はもちろん小過だって許されない。息をするのがやっと。先生たちはそう思っている。そんな学校がこどもにとって、おもしろいはずがない。勉強以外のところへ関心を向ける。世の中は教育に関心をもっているようなことを言うが、その実、案外、学校に敵意をもっているのかもしれない。どうしてだかわからないが、近年、ことにその傾向がはっきりしているように思われるりっぱな建物を建ててみても、社会が学校を信頼しなければ本当の教育は行われない。

教育にしても

教育熱はそれとはひと味違うのであるがどう違うか嬉しい時は「やったー!」と飛び跳ねて大喜び、気に入らないと「さいあく!おかしいんじゃないの!」とさんざん難クセをつけてきます。なのでいい時はいいのですが、いったん機嫌が悪くなると、さあ大変。びゅんびゅん振り回されます。うちではそれが、熱々ごはんでボッパツします。「ぜんっぜん食べらんない!」、茶わんを箸でガンガンつつきます。いつぞやは、親子丼で大荒れゴングが鳴りました。カそんな時の対処法です。育てておけばひとしきりやらせる共感で聞く「どうする?-でキメるまずは、「ひとしきりやらせる」。そばにいて、一番しんどいのはここです。人に当たります。書きたくないので書きませんが、言葉もバンバン出ます。ですが、グッとこらえてください。途中で「何、その言葉遣いは!」「やめなさい!」と口を挟むと拍車がかかります。

幼児は自分の感情をコントロールできるようになってきている

その上に、親たちは運動環境を与えていません。現在、子どもたちは、自分で自由に選択できる運動環境がない状況におかれているだけに、親たちは、積極的に運動環境を与えなければならないのですが、それに気づかずに、おとなしい子どものままにしておくのです。幼稚園も、知的能力を育てることに心を奪われ、子どもたちが園庭に出る時間を少なくしてしまっていますスポーツクラブは、運動の機会を子どもに与え、技術を養うことには役立っていますが、最も大切な「自由」の中で意欲を養う点になると問題があります。つまり、自発的にからだを張って遊ぶ力は養われないのです。運動環境を与えよう昭和三十年代に、空地や林などの自然の遊び場が、次々と子どもから奪われていきました。


子どもが増加していたのです

私たちは、それらを子どものために残して欲しい!と声を大きくして叫びましたが、経済復興に目のくらんだ政治家や行政官は、その声に耳を貸してはくれませんでしたようやくそのことに気づいたときには、すでに手遅れの状況で、には、意欲のない子どもが増加していたのです。運動の機会の少なくなった子どもたちの間そのような子どもたちの氷山の一角に、登校拒否児がいます。登校拒否児の急激な増加は、他の文明諸国には類例がありません。わが国独特の社会的背景の中で生じている問題なのです。このことを考えるならば、子どもたちが自発的に遊ぶことのできる「遊び場」を返してほしいればなりません。子どもをボコボコにしちゃつてるってことですで

子どもでもこれくらいなら突っ込めます

幼児も落ち着いてきます

しつけがなっていないから赤ちゃんとのコミュニケーションも、大人のコミュニケーションも、やっている事は同じです。赤ちゃんとのコミュニケーションには言葉が無いだけなのです。もし母親が、赤ちゃんとのコミュニケーションの意味を知らずに、こうしたコミュニケーションを蔑にしていたら、コミュニケーションの基礎の習得が出来ずに、火の段階·Λの段階の習得も不完全な物になってしまうのです。表情の読み取り何故、コミュニケーションには声や言葉だけ出なく、笑顔などの表情が必要なのでしょう?そのルーツは猿にあります。人間は猿から進化した動物ですので、猿としてのコミュニケーションが根底にあるのです。幼児の脳に育ちは期待できないどころか幼児を連れて行って

幼児のいたずらにことごとくダメ出しし

育児大変だよねあなたのおかげで

さて、その猿としてのコミュニケーションとは一体何でしょうか?幾多の動物の中で何故、猿の顔には毛が生えていないのか、不思議に思った事は有りませんか?それは、猿には表情筋が多く、表情で情報を伝達しているからです。その情報を読み取り易くする為、猿の顔には毛が生えていないのです。それは、猿から進化した人間も同じなのです。ですので、人間は顔と同じ配置の物があれば、顔だと認識してしまうのです。それ程までに表情は人間にとって重要な物なのです。

子育てをしていると

そういう考えから教壇というものをとってしまった戦後の教育からみるとオシッコをしない先生の話ははなはだ滑稽であろうが、生徒はそういう先生のおかげで勉強の大切さを知り、ついには、自分も先生になりたいとまで思うようになったのだから、おもしろオシッコをしない先生に教わったかつての生徒が自分で先生になって驚いた。それは身から出たサビだ、と言われれば、がまんしてもい親たちからまるでバカにさ許せないのは、こどもの前で、大人たちが先生の月給の高低をうんぬんすることだ。月給が安いといって同情してくれるのなら、その志はありがたい。それから、こどものいないところで、声をひそめて、心をいためてもらいたいひょっとすると、月給が安いといって見下ろしているのかもしれない。自分の収入と比べて、あわれな先生のサラリー、とさげすんでいる人がないとは言えない。論外である。そういう家庭のこどもに先生の言うことをきけといってもきくわけがない。

幼児たちにであることを過度に求め

こども心に、先生はうちのお父さんより下級のサラリーマンなんだなと感じる。そのお父さんの言うことだってよくきけない。まして、先生をや、となる。昔のおやじは、地震、かみなり、火事につぐくらいおそろしかった。しかしオシッコをしない先生はおやじなんかの比ではない何しろ、人間ばなれをして、言われると、ピリリとした。ほとんど神さまに近い。うちで叱られてなおらないことでも、学校の先生から戦後の親たちは、こどもの先生をサラリーマンにしてしまった。
育児が明治以来とうとうと流れている

子どもの心になる-ということはなかなかむずかしいのですが

ほっこりさんにだって限界はあります。だまっているのをいいことに、無関心でしたり、からかったり、ほっこりさんを育てるママ友だちが、先日これでえらい目にあったそうです。「帰り道で友だちに『キモイ』って言われたみたいなの。けど、ずっとこらえてたんだろうね。帰ってくるなり大暴れよ。泣くわわめくわ、手あたりしだいに物を投げるわ。

子育てに参加したいという男性に是非伝えたいのです

あげくの果てに、竹刀持って『相手の家に行ってくる』って。止めるの大変だったこの方、こんなことも言っていました。「小さい時から、何でも言う通りにする子だったの。家にいなさいって言えば家にいるし。これ着て行きなさいって言えばその通りにするし。